第 3 章
同じ砂場の一場面を前にしても、ある保育者は身を乗り出してそばに座り、別の保育者は手を出して片づけを促します。二人を分けているのは、技術の差というより、子どもをどう見ているかの違いです。子どもは未熟で足りない存在なのか、それともすでに自分の力で世界に向かう有能な学び手なのか。このまなざしの違いが、日々の関わりを根本から変えていきます。本章では、保育の土台にある「子ども観」を取り上げます。前章までで、遊びの意味と、それを見る枠組みをお伝えしました。ここでは、その枠組みを通して子どもを見るまなざしそのものに目を向けます。
この章で得られること
この章を、まずスライドで
二つの見方
子どもを見るまなざしには、大きく分けて二つの方向があります。ひとつは、子どもを「まだ足りない存在」としてとらえる見方です。文字を知らない、数を数えられない、長く座っていられない。大人ができることを基準に置き、そこに届いていない部分を数え上げ、ひとつずつ埋めていこうとするまなざしです。もうひとつは、子どもを「すでに有能な学び手」としてとらえる見方です。生まれたその日から、子どもは自分から世界に手を伸ばし、確かめ、意味を見つけようとしています。その力がすでに備わっていると信じ、それが十分に発揮される場を整えようとするまなざしです。
この二つは、どちらが優しくてどちらが厳しい、という話ではありません。どちらの保育者も、子どものことを思っています。ただ、出発点が違うと、見えるものが変わります。足りないものを埋めようとする目は、子どもの「できないところ」によく気づきます。すでにある力を信じる目は、子どもの「やろうとしているところ」によく気づきます。同じ子どもを見ていても、目に飛びこんでくる情報そのものが違ってくるのです。
たとえば、スプーンをうまく使えずに食べこぼしている子がいるとします。一つめの見方では「まだスプーンが使えない子」と映り、手を添えて正しい持ち方を教えたくなります。二つめの見方では「自分の手で食べようと挑戦している子」と映り、こぼしながらも自分でやり遂げる時間を、もう少し見守りたくなります。どちらも保育として成り立ちますが、その子が受け取る経験はずいぶん違います。前者では「できない自分を直してもらった」という感覚が残り、後者では「自分でやれた」という手応えが残ります。
大切なのは、この二つの見方は完全に切り分けられるものではない、ということです。子どもには確かに、まだ獲得していない技能があります。それを支えるのも保育の仕事です。一方で、どちらのまなざしを土台に置くかで、支え方の質が変わります。私たちが提案したいのは、足りなさに気づく目を捨てることではなく、まず「すでに有能である」という信頼を土台に据え、そのうえで必要な手助けを選ぶ、という順序です。
ここで、現場でよく交わされる不安にも触れておきます。発達には、おおよその目安があります。何か月ごろに歩きはじめる、何歳ごろに二語文が出る、といったマイルストーンです。これは、育ちを大づかみにとらえ、手を差し伸べたほうがよい場面に早めに気づくための地図として役に立ちます。ただ、地図は道そのものではありません。早く歩きはじめる子もいれば、這うことをたっぷり味わってから立ち上がる子もいます。言葉が一気にあふれる子もいれば、しばらく内側に蓄えてから、まとめて話しはじめる子もいます。目安との差は、そのまま「遅れ」を意味するものではなく、その子の育ち方の個性です。
違いは、速さだけでなく、伸びる順番にもあらわれます。私たちが日々のなかで思い出しておきたいのは、次のようなことです。
目安を知っていることと、目安で子どもを測ることは違います。むしろ目安をよく知っているほど、「この子はこの子の速さで進んでいる」と落ち着いて見ていられます。保護者から「うちの子は遅いのでしょうか」と尋ねられたときも、私たちは月齢の表と照らし合わせて答えるのではなく、その子が園で見せている姿を具体的にお伝えします。昨日より長く積み木に向き合っていたこと、はじめて自分から友達に手を差し出したこと。比べる相手は、ほかの子ではなく、少し前のその子自身です。
これは心がけの話ではなく、私たちの内側で決めていることです。新しく入る職員に渡している手引きでは、発達のマイルストーンに丸ごと一ページを割き、その見出しを This is not a checklist(これはチェックリストではありません)としています。目安を並べた表を、その子の合否を確かめる用紙として使わない、という宣言です。手引きが挙げている理由は、次のようなことです。
そのうえで手引きは、発達のマイルストーンは指示書ではなく情報源として使ってください、と結んでいます。豪州の保育の枠組み(EYLF)自身の言葉も、そこに引かれています。
子どもの学びは続いていくもので、一人ひとりが違う道を、同じだけ意味のある形で進んでいきます。学びはつねに予測できるものでも、一直線でもありません。
Early Years Learning Framework(EYLF)p.19 より
私たちが信じていること
私たちは、子どもを「まだ足りない存在」として見ないことに決めています。理想としてではなく、毎日の実践の出発点としてです。
できないことに目を向ければ、そこを埋める作業が始まります。すでにある力に目を向ければ、その力が発揮される場をどう整えるかという問いが始まります。同じ子どもを前にしても、そこから先の一日がまるごと変わります。技術を選ぶ前に、まずまなざしの土台を信頼の側に据えること。ここが定まらないままだと、このあとに続く章は、すべて道具の話で終わってしまいます。
この「すでに有能である」というまなざしは、心がまえや理想の話ではありません。子どもの育ちをどうとらえるかという理論の側からも、同じ方向が示されています。私たちは各園の研修で、次の四つのレンズを重ねて子どもを見るようにしています。このレンズも、さきほどの表と同じで、子どもを測るための道具ではありません。目の前の姿には理由がある、とわかるために使います。
図版|四つのレンズ。一度にひとつしか見えない/支えがあれば届く帯/支えられて踏み出す/いちばん上はまだ工事中

ハルカ先生
日本にいたころ、マイルストーンの表を毎月にらんでいた時期がありました。何歳何か月でこれができる、と書いてある表です。いま思うと、わたしが見ていたのは表であって、その子ではありませんでした。
発達のレンズ / ピアジェ
二歳から七歳ごろの子どもは、ものごとを一度にひとつの側面からしか見られません。ビーズを色で分けて「こっちが多い」と言えても、そのとき形や素材は目に入っていないのです。また、自分に見えている世界がすべてで、ほかの人には別の見え方があることに、まだ気づいていません。おもちゃを譲れないのは、意地悪だからではなく、相手から見た景色がまだ立ち上がっていないからです。
社会文化のレンズ / ヴィゴツキー
学ぶ力は、人とのやりとりのなかで引き出されます。ひとりでできることと、まだできないこと。その間に「少し支えがあればできること」という帯があり、学びはそこで育ちます。遊びながらぶつぶつと独り言を言っている子は、気を散らしているのではありません。声に出して考えている最中です。
心理社会のレンズ / エリクソン
一歳半から三歳ごろは、自分でやりたい気持ちが育つ時期です。ここで挑戦を支えられた子は、決めることや探索することに安心を覚えます。逆に、細かく統制されたり批判されたりすると、自分の力を疑いはじめます。四歳から五歳では、やってみる意欲そのものが育ちます。失敗も含めて、試したことを認められる経験がいります。
脳のレンズ / 三つの層
脳は下の層から順に育ちます。生まれてしばらくは、呼吸や安全といった生存の層が中心です。次に感情の層が育ち、考える層(大脳皮質)はそのあと、二十代までかけてゆっくり仕上がっていきます。つまりトドラー(1 歳半〜3 歳)は、自分ひとりで気持ちを鎮める部分がまだ工事中です。だから大人がそばで一緒に落ち着き、その方法を見せることが必要です。三歳から五歳で感情と思考がつながりはじめますが、強いストレスや葛藤の場面では、そのつながりは簡単に切れます。
この四つを重ねると、「困った行動」に見えていたものの多くが、育ちの途中の姿として見えてきます。順番を待てないのは、我慢が足りないからではありません。待つことを支える脳の部分が、まだ育っているところだからです。だとすれば必要なのは、注意することではなく、そばで一緒に落ち着く時間のほうです。同じ場面を前にして、注意するか隣に座るかを分けているのは、技術ではなく、この見方です。
豊かな子ども像
「すでに有能な学び手」という子ども観を、もっとも美しく言い表した言葉のひとつに、イタリア北部のレッジョ・エミリアという街の保育から生まれた「子どもの百の言葉」があります。この街の保育を導いたローリス・マラグッツィが残した詩の題でもあります。難しい理論ではありません。子どもは、世界を表現し、学ぶための方法を百も持っている、という見方です。ところが大人は、そのほとんどを取り上げ、文字や数といった一つのやり方だけを正解にしてしまいがちです。詩は、そう語りかけます。
ここで言う「言葉」とは、話す言葉のことだけではありません。子どもが世界とやりとりするための、あらゆる表現や学びの仕方のことです。描く、つくる、踊る、歌う、積む、こねる、ごっこで演じる、じっと見つめる。子どもはこうしたいろいろなやり方で、感じたことや考えたことを表に出し、同時に世界を理解していきます。手も身体も、考えたり学んだりするための道具なのです。文字を覚える前から、子どもはすでに豊かに表現し、豊かに学んでいます。
この見方に立つと、日々の場面の見え方が変わります。粘土を黙々とこねている子は、「何も話さない子」ではなく、手という言葉で素材と対話している子です。同じ絵を何枚も描く子は、「同じことばかりする子」ではなく、一つのイメージを繰り返し確かめている子です。積み木を高く積んでは崩す子は、崩すことを通して「高さ」や「安定」を身体で確かめています。どの子も、その子なりのやり方で世界を語っています。保育者の仕事は、それを文字や言葉に直させることではなく、その子のやり方のまま受け取ることです。
具体的に考えてみます。お絵かきの時間に、紙を黒一色で塗りつぶす子がいたとします。「もっときれいな色を使ったら」と言いたくなるかもしれません。ただ、「百の言葉」のまなざしで見ると、その黒は、その子がいま表したい何かなのかもしれません。夜かもしれませんし、トンネルかもしれませんし、うまく言葉にできない気持ちそのものかもしれません。正しい色などないのです。「これは何を描いたの」と急いで尋ねるより、「いっぱい塗ったね」とまず受け取る。すると子どもは、自分の言葉が聞き届けられたと感じ、次の言葉を語りはじめます。
「子どもには百の言葉がある。そのほとんどが、奪われている」。子どもは、考えるための手も、表すための身体も、生まれつき豊かに持っています。私たちはそれを引き出すのではなく、取り上げずにいるだけでよいのかもしれません。
レッジョ・エミリアの保育に伝わる詩「子どもの百の言葉」より、平易に
念のため添えておくと、レッジョ・エミリアの保育は、その街の歴史と文化に深く根ざした営みであり、どこかにそのまま移し替えられるものではありません。一方で「子どもは多様な言葉で世界を表現し学ぶ」という子ども像そのものは、どの園のどの場面でも、明日から手にできる見方です。私たちがここで借りたいのは、特定の方法ではなく、この豊かな子ども像のほうです。
子ども観が関わりを変える
子ども観は、頭のなかの考えだけにとどまりません。それは、保育者のとっさの動きとなって、その場にあらわれます。ここでは一つの場面を取り上げ、二つの子ども観で見たときに、保育者の動きがどう変わるかを並べてみます。場面はこうです。砂場で、四歳の子が一人、深い穴を掘ろうとしています。ところが、掘れば掘るほど、まわりの砂がさらさらと崩れ落ちてきて、穴はなかなか深くなりません。子どもは少し眉を寄せ、手を止めずに掘り続けています。
まず、子どもを「足りない存在」として見るまなざしで、この場面に入ってみます。保育者の目には、「うまくいかずに困っている子」が映ります。困っているなら、助けるのが親切です。そこで近づいて、こう言うかもしれません。「砂がさらさらだと崩れちゃうね。お水を入れると固まるよ」。あるいは、自分でじょうろを持ってきて、水をかけて見せます。子どもは「そうか」と納得し、固まった砂で穴は深くなります。問題は解決し、子どもは喜びます。ここで起きたことは、けっして悪いことではありません。ただ、子どもが自分でたどり着けたかもしれない発見は、保育者の手で先に渡されました。
次に、同じ場面を「すでに有能な学び手」としてとらえるまなざしで見直します。保育者の目には、「砂の性質を、いままさに確かめている子」が映ります。この子はいま、崩れるという砂の性質に向き合っている最中です。ここで答えを渡せば、その学びの機会は終わってしまう。だから保育者は、すぐには近づきません。少し離れて見守りながら、子どもが崩れる砂とどう向き合うかを見届けます。子どもが何度か崩れを経験したあと、もし手が止まり、興味が薄れかけたら、そのときはじめて、答えではなく問いをそっと差し出します。「どうしたら、崩れないかな」。あるいは、近くにじょうろを黙って置いておく。選ぶのは子どもです。その子が自分で水を思いついて試したとき、「水を入れると固まる」という発見は、その子自身のものになります。
二つの場面の違いを、整理してみます。動作の差はわずかですが、子どもの経験の差は小さくありません。
繰り返しになりますが、水のかけ方を教える保育がまちがいなのではありません。子どもがほんとうに行き詰まり、助けを求めているなら、答えを渡すのが最善のときもあります。問われているのは、それを「いつ」差し出すかです。有能な学び手として子どもを見るまなざしは、その「いつ」を遅らせます。子どもが自分でたどり着く余白を、もう少しだけ長く残そうとします。子ども観の違いは、何をするかよりも、いつ関わるか、そして発見を子ども自身のものにしようとする姿勢に、はっきりとあらわれるのです。
「助けてあげたい」という気持ちは、たいてい正しいものです。ただ、その気持ちが動く一拍だけ手前で、こう問い直してみる。「この子はいま、助けを求めているのだろうか。それとも、確かめている途中なのだろうか」。
関わりに入る前の、保育者の自問
信頼に基づく保育
子どもを有能な学び手として見るまなざしは、保育者に「待つ」「任せる」「見守る」という関わりを多く求めます。ここで、誤解されやすい点を、はっきりさせておきます。待つことや見守ることは、「何もしないこと」や「楽をすること」ではありません。子どもを信頼しているからこその、高度な判断です。むしろ、手を出すよりずっと難しいことのほうが多いのです。
なぜ難しいのでしょうか。子どもがうまくいかずにいる姿を、口も手も出さずに見届けるには、こらえる力がいるからです。崩れる砂に向き合う子のそばで、「水を入れると固まるのに」と知っている保育者が、それを言わずにいる。これは、知らないから黙っているのではありません。その子の発見を奪わないために、あえて言わないという選択です。知っていてなお差し出さない。この自制こそが、待つことの中身です。
待つ・任せる・見守るは、別々の行為ではなく、どれも「信頼」という同じ土台から生まれています。それぞれが保育者に何を求めるのかを整理してみます。
ここで、見守ることと放任することの違いにも触れておきます。この二つは、外から見るとよく似ています。どちらも、保育者が手を出していないように見えるからです。しかし、中身はまったく違います。見守りは、子どもの様子をこまやかに読み取りながら、あえて関わらないことを選び続ける、能動的な行いです。いつ手を差し出すべきかを、保育者は常に測っています。放任は、子どもから目が離れている状態です。何が起きているかを見ておらず、だから必要なときに手を差し出すこともできません。見守りには意図があり、放任には意図がありません。この違いは、子どもの安全にも、学びの深まりにも、決定的にかかわります。
もう一つ、待つことには見落とされがちな効果があります。保育者が待ってくれるという経験は、子どものなかに「自分は信頼されている」という感覚を育てます。急かされず、先回りされず、自分のペースで試すことを許される。その積み重ねが、「自分にはやれる」という自己への信頼の土台になります。逆に、いつも先に手や答えが出てくる環境では、子どもは少しずつ「自分は一人ではできない」と学んでしまいます。待つという保育者の行為は、目に見えにくいものの、子どもの自己像を確かに形づくっているのです。
ここでひとつ、付け加えておきたいことがあります。待つことも、任せることも、その土台に「安心」がなければ成り立ちません。子どもが自分から手を伸ばし、うまくいかない時間も含めて試していられるのは、この場所は大丈夫だと身体で感じられているときです。その安心を用意するのは、子ども自身にはできない仕事です。心理的にも物理的にも、安心して遊び学べる環境を整えること。それが私たちの務めであり、有能な学び手という子ども観を絵に描いた餅にしないための、いちばん現実的な支えになります。
この二つが整っていない場所では、子どもの有能さは表に出てきません。挑戦しない、同じ遊びから動かない、大人の顔色をうかがう。そうした姿を目にしたとき、その子の性格の問題として片づける前に、環境の側を見直してみます。道具が届かない場所にあるだけかもしれません。前に失敗を笑われた記憶が残っているのかもしれません。安心は、子どもに求めるものではなく、私たちが用意するものです。安全と安心が学びの土台になるという話は、第10章「学びの育ち ウェルビーイング」で、からだ・環境・心の三つの面からあらためて取り上げます。
とはいえ、いつでも待てばよいというものでもありません。待つことが専門性であるのは、「いつ待ち、いつ手を差し出すか」を見極めているからです。安全が脅かされているとき、子どもが本気で助けを求めて振り返ったとき、何度試しても糸口が見えず探究そのものがしぼみきっているとき。こうした場面では、ためらわずに関わります。待つことと関わることは、反対のものではありません。子どもをよく見て、いまはどちらの場面かを見極める。その繰り返しが、信頼に基づく保育の実際です。
見守りと放任を分けるもの
見守りには、子どもをよく見ているという「意図」があります。だからこそ、必要なときに手を差し出せます。放任には、その意図がありません。手を出していないという見た目は同じでも、子どもの様子が見えているかどうかが、二つを分けます。何もしていないように見える保育者ほど、内側では細やかに見て、測り、こらえているのです。
いちばん手を出したくなった、その瞬間に手を引く。それができるのは、子どもを信じているからです。待つことは、保育者が自分の有能さを示す場ではなく、子どもの有能さに場を譲ることなのだと思います。
見守りという専門性について
まなざしを育てる
ここまで、有能な学び手としての子ども観をお伝えしてきました。最後に、このまなざしをどう自分のものにしていくかに触れておきます。子ども観は、一度聞いて頭で納得すれば身につく、というものではありません。多くの保育者は、自分が育つなかで、知らず知らず「足りない存在」として子どもを見る習慣を身につけています。それは責められることではなく、ごく自然なことです。だからこそ、有能な学び手として見るまなざしは、日々の場面のなかで、意識して選び直していくことで、少しずつ育っていきます。
手がかりは、ささやかな問い直しのなかにあります。子どもの「できない」場面に出会ったとき、心のなかで一度、言い換えてみるのです。「まだ着替えができない子」を「自分で着ようと格闘している子」と。「すぐ手が出てしまう子」を「気持ちを言葉にする方法を、まだ探している子」と。同じ事実を、足りなさの言葉から、向かっている力の言葉へと置き換える。この小さな言い換えを繰り返すうちに、子どもを見る目の初期設定そのものが、信頼の側へと変わっていきます。
そして、このまなざしは一人で抱えるものではなく、園のなかで分かち合えるものです。同じ子どもの同じ場面を、同僚と「この子はいま何を確かめているのだろう」と語り合う。その対話のなかで、一人では気づけなかったその子の力が見えてきます。子ども観は、個人の心がけであると同時に、園の文化でもあります。チームで「有能な学び手」というまなざしを共有できたとき、その園は、子どもにとって挑戦しやすい場所になっていきます。
子どもをどう見るか。それは、保育のすべての関わりの、いちばん奥にある根です。有能な学び手として子どもを信じるまなざしが据わると、待つことも、任せることも、見守ることも、自然と保育のなかに居場所を見つけていきます。次の第4章では、このまなざしに支えられた保育者が、子どものそばで具体的にどう振る舞うのかを取り上げます。観察し、応答し、ともに歩む、保育者の役割そのものへと話を進めていきます。
note 本章で用いた砂場・粘土・お絵かきなどの場面は、GSE 提携園で日常的に見られる遊びをもとにした一例です。「足りない目」と「有能な目」を、実際の記録写真とエピソードで見比べる演習を、研修パートに用意しています。子ども観の転換は、言葉で理解するより、具体的な一場面で「自分ならどう動くか」を問われたときに、いちばん深く起こります。
現地の実践 / GSE

子どもを、有能な学び手として信じる
木登りを通して、自分でリスクを見極め、自分の力を信じていく子どもの姿。挑戦を見守るまなざしが伝わります。
豪州の園の記録より(2026-02-08)。
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ハルカ先生
先週、いちばん気になっていた子のことを、できないことではなく、していることだけで書き出してみました。十四個ありました。書きながら、この子は何もできない子だと思っていた自分が、少し恥ずかしくなりました。
ハルカ先生について。豪州 GSE のエデュケーターたちの記録をもとにした、ひとりの人物です。日本の認定こども園で四年ほど働いたあと豪州へ渡り、現地の職業教育機関(RTO)で Certificate III(幼児教育・保育)を取得しました。いまは GSE のセンターで働きながら、Diploma の取得をめざして通学しています。トドラー(1 歳半〜3 歳)の部屋を主に担当し、配置の都合でキンディ(3〜5 歳)の部屋に入ることもあります。名前と姿は仮のものですが、ハルカ先生が出会う出来事は、実際の記録にもとづいています。
私たちから
子どもを信じて待ちましょう、と言葉にするのは簡単ですが、目の前で困っている子を前にすると、手のほうが先に動きます。私たちも同じです。まずは一日にひとりだけ、その子が「していること」を 三つ書き出してみてください。見方は、言葉にした分だけ動いていきます。
グローバルスカイ・エデュケーション エデュケーション・チーム